「テックで一発当てるはずが、気づけば創業20年」――CMSからスマホアプリ、生成AIまで、編集記者がもがいたコンテンツ制作の現場

こんにちは、アンジーの森です。
社名「ANDG(アンジー)」には、「ANALOG(人)」と「DIGITAL(テクノロジー)」を組み合わせるという想いを込めています。2005年の創業以来、編集の力とテクノロジーを掛け合わせ、デジタルネイティブな視点でコンテンツをつくり続けてきました。20期を迎えた今、私たちの歩みとこれからについてお話しします。

序章:創業前夜 ― コンピューターと編集のあいだで

 私のキャリアは、出版物の編集とコンピューターの狭間から始まりました。

 出発点は、工業高専の電気工学科。モノづくりや情報処理技術の基礎は、ここで自然に身についていきました。1990年、最初に就職したのは、求人情報誌などを手広く展開する企業。私はそこで、情報誌の編集と制作の現場に飛び込みます。一部の誌面づくりにはすでにコンピュータープリンティングの技術が導入されており、「編集とテクノロジー」は、ごく自然な組み合わせとして私の中に刻まれていきました。

 1995年、パソコン雑誌の出版社に転職。Macintoshを扱う編集部に所属しました。そこでは、雑誌全体をデスクトップパブリッシング(DTP)でつくりあげるという、当時としてはかなり先進的な制作体制が敷かれていました。編集、レイアウト、入稿まですべてMacintoshで完結することや、インターネットを通じて次々と届く新しい技術情報に、私は心を躍らせました。コンピューターが作業道具ではなく、表現や構想の一部として機能する。その感覚が、編集者としての私のスタイルをかたちづくっていきました。

 やがて、時代はインターネットに大きく舵を切っていきます。1990年代後半、Webサイトという新しいメディアに、私は強く惹かれるようになりました。雑誌のために取材・執筆した記事が、書店に並ぶよりも前に、すでにインターネット上では更新されている――。そんな状況に直面し、「本だけをつくっている場合ではない」と、編集者としての焦りすら感じました。

 

 1998年、私は思い切って出版社を離れ、Web制作を学ぶ専門学校に通い始めました。昼はインターネットプロバイダで勤務し、夜はHTMLやJavaScriptの授業に通う日々。プロバイダの職場では、ネットワークやCGI、Webデザインなど、スキル豊富な人たちが活躍していました。先進的な情報を集めて発信したり、ソフトウェアを独自に解析して使いやすくしたり、CD-ROMにありえないくらい長時間の音楽を収録したり――。ハッカーという言葉にどこか怪しげな響きがあった時代。でも私には、彼らの中に、未来の情報社会をつくる「先行者たち」の姿が見えていました。

 当時、世間にはまだ「コンピューター=オタクの道具」という偏見も根強く残っていました。しかし、私の目の前にいたのは、知識と技術を駆使して世界とつながろうとする実践者たち。その姿を見ながら、「これは一時の流行なんかじゃない。必ずこの未来が来る」と確信したことを、今でもよく覚えています。

創業への助走 ― モバイルメディアの最前線から、次のステージへ

 Web制作の専門学校とプロバイダ勤務を終え、1999年に入社した制作プロダクションでは、ちょうど携帯電話向けインターネットが立ち上がろうとしていました。私は、大手漫画雑誌のWebサイト制作をはじめ、芸能プロダクションやおもちゃメーカーと連携したモバイルサイトの制作に関わるようになります。iモードに代表される携帯インターネットの登場により、待ち受け画像や占い、着メロなどのコンテンツが毎月のように更新され、サブスクリプション型の課金モデルで収益をあげていく――そんな新しいビジネスの立ち上げに、私は現場から関わることができました。

 メディアが変われば、情報の届け方も変わります。雑誌や書籍とは異なるスピード感や表現方法の中で、私は「コンテンツ制作の可能性」が大きく広がっていく感覚を味わっていました。

 しかしその一方で、当時のインターネットコンテンツはまだ「重たく、コストのかかる」ものでした。サーバーは自前で構築し、運用はデータセンター任せ。Webサイトを立ち上げるにはエンジニアの力が不可欠で、情報発信は決して身近なものではありませんでした。中小企業や個人にとっては、伝えたい思いがあっても、それを実現するまでのハードルがあまりにも高かったのです。

 さらに私が強く課題に感じていたのは、出版企画系とシステム開発系の人材のあいだに横たわる壁でした。コンテンツを企画し、構成を考える編集者と、それをかたちにするエンジニアが、うまく意思疎通できない場面が少なくなかったのです。私は両方の言い分がわかりますが、言葉の定義、進め方の違い、そもそも目指すゴールが共有されていない――そんな場面に何度も直面しました。

  せっかく優れたノウハウや技術があっても、それを活用してユーザーに届け、反応を見ながら改善するという、制作チームとしての“流れ”が確立されていない。私はそこに、大きなもどかしさを感じていました。

 「もっと少人数でも、もっと自由に、チームワークの中で情報発信ができる時代が来るはずだ」

 そんな思いが、少しずつ自分の中で強くなっていったのです。

 2003年ごろになると、CMSやブログといった“誰でも発信できる仕組み”がインターネット上で話題になり始めます。HTMLやサーバーの知識がなくても、記事を書いて「公開」ボタンを押すだけで世界に届けられる。私はこれを、単なる流行ではなく、情報発信のパラダイムが変わる兆しだと感じました。

 ブログを研究するなかで、FlashサイトでもCMS経由で画像やテキストを自由に更新できるという仕組みを作ったクリエイターに出会いました。当時、Flashは表現力が高い一方で更新に弱く、運用負荷の高いメディアとされていました。しかしその仕組みなら、デザインの自由度を保ちながら、効率よく運用ができる――私はそう確信しました。

「少人数でも、高度なWebパブリッシングが実現できる」

 この気づきが、アンジーの構想へとつながっていきます。

 当時のプロダクションでやってもよかったのですが、出版系の人材には私の話はどこか突飛で、夢見がちに思えたかもしれません。それでも私は、情報発信の本質が変わろうとしている手応えを強く感じていました。「伝える力」と「支える技術」がともに必要になる時代。その両方を理解し、つなぐ存在となりたいと思いました。

創業と転機 ― Flashの終焉からスマホアプリの時代へ


 2005年、私は「アンジー(ANDG)」を立ち上げました。なん度も言って恐縮ですが、社名には、アナログ(人)とデジタル(技術)を掛け合わせるという想いを込めています。その理念のもと、創業当初は雑誌・書籍の編集制作に加えて、企業のオウンドメディアをCMSで構築し、そのCMSと連携するFlashアプリケーションの開発も手がけていました。

 実はこの「ANDG」という名前には、もうひとつ小さな工夫が込められています。当時の主流だった携帯電話の10キー入力で打ちやすい文字の並びになっているのです。Aはキー1回、Nは2回、Dは1回、Gも1回。まあまあ短く、アクセスしやすいドメインにすることで、少しでもユーザーとの距離を縮めたい。そんな小さな工夫も、情報を“伝える”ことに真剣だった私たちらしい設計のひとつでした。

 当時のアンジーの強みは、技術力と編集力のバランスにありました。たとえば、記事制作のノウハウを活かして、CMSを使ったコンテンツ更新をスムーズに設計したり、PC向けにはFlashで表現力を補強しながら、モバイルでの閲覧にも配慮したり――編集の現場で培った“読む人を意識する感覚”を、Webやモバイルの世界にそのまま持ち込んでいたのです。更新性と表現力を両立できるスタイルは当時としてはユニークな存在だったと思います。創業から数年間は安定した受注があり、手応えのある滑り出しでした。

 しかし、2008年ごろはリーマンショックの影響で状況が変わりました。企業ブログなど企業広報の予算は次々と削減され、私たちのような下請け制作会社にまで仕事が届かなくなっていったのです。さらに追い打ちをかけるように、2007年にiPhoneが登場し、モバイル界で一世を風靡しはじめると、Flashは敬遠されるようになっていきました。

 2009年から2010年にかけて、私たちはWeb系の仕事がほとんど途絶えた、厳しい時期を迎えました。どうにかして会社を維持しようと、収益性が年々下がっていた書籍や雑誌の編集制作に加え、賞金付きのモバイルアプリコンテストに作品を出品するなどして、なんとか食いつなぐ日々が続きました。幸い、弊社にはJavaScriptやFlash ActionScriptに長けた優秀な技術者がいて、同じコンテストでなんと4作品が入賞。現在もですが、その実力に何度も助けられています。

 私は賞金稼ぎをしているときに、「たとえ受託案件がなくても、うちの技術にはすばらしい価値がある」と確信しました。さらに、どんな技術を使うにしても、最後に必要なのは“誰に、何を、どう伝えるか”を設計できる編集の視点だということも、あらためて実感していました。

  そこで次に目を向けたのが、当時勢いを増していたiPhoneアプリの開発と自社での提供です。注文がないなら自分たちで稼ごうというわけです。

  とはいえ、私たちにとってiOSアプリは未知の領域でした。JavaScriptやFlashのスクリプトとはまったく異なる開発環境、異なる設計思想。それでも2011年から研究を始め、2013年の夏までに100本のアプリをリリースしようと目標を掲げ、プロジェクトを進めていきました。

 途中、失敗も試行錯誤も数えきれないほどありましたが、数をこなすなかで小さなヒットが生まれ、たしか63本目だったと思いますが、2013年に発表した写真加工アプリ「My Heart Camera」が大ヒットを記録。国内外で多くのユーザーに使っていただき、Adobeのアワードも受賞します。これが大きな転機となりました。

 不安定な時代でも、自分たちで考え、つくり、届ける。その力があれば、次の道は切り拓ける。そう実感した瞬間でした。

進化と転換 ― エンタープライズITと生成AIの時代へ
 

 2013年、「My Heart Camera」のヒットによって大きな転機を迎えた私たちは、その後しばらく、スマートフォン向けの写真加工アプリや、まとめサイトを活用した広告収入モデルを中心に事業を展開していきました。出版部門では、サブカルチャーに強いメンバーの力を活かし、ネットやゲーム、漫画関連の書籍も手がけてきました。

 しかし、写真加工系アプリなど、エンドユーザーに課金しない広告モデル中心のアプリの収益性には限界があり、安定的な成長は難しいと感じるようになります。やがて自社アプリ案件の成長は鈍化し、受託制作が主軸になっていきました。一方で、雑誌・書籍の編集制作も単価が下がり、今後を見据えた転換が必要だと感じていました。

 そんな中、2018年ごろから、編集プロダクション業務として、エンタープライズIT分野への注力を強めていきました。実は創業当初から細々と取り組んではいたものの、本格的に力を入れるようになったのはこの時期からです。ちょうど経済産業省が「2025年の崖」として、企業のデジタル化の遅れに警鐘を鳴らしはじめたころでもあり、企業のIT投資が急速に加速していきました。それにともない、SaaSやクラウドサービスの導入事例、スタートアップの創業者インタビュー、ITプロダクトのユーザー事例など、専門性の高いコンテンツ制作へのニーズも大きく高まっていったのです。

 この分野には、技術とビジネスの両方を理解し、ユーザーに届く言葉で伝えられる編集者がまだ少なく、私たちのように「テックに強く、編集ができるチーム」には、確かな需要があると感じるようになりました。

 また、もうひとつ私たちが2018年から本格的に取り組み始めたのが英語のスキル強化です。私自身がTOEIC800点を超えたことをSNSで報告したところ、思いがけず英語案件の相談が舞い込みました。これをきっかけにさらに勉強を重ね、TOEIC900点を突破。その後、2021年のコロナ禍のころからは、海外スタートアップの創業者に英語で取材するという新しいタイプの案件も舞い込むようになりました。

 今では、英語でのインタビュー記事やイベントレポート制作は、当社にとって大きな柱のひとつになりつつあります。取材対象が海外でも、内容がテック寄りでも、私たちはそれを「伝わる言葉」に変えることができる。編集力と語学力の掛け算が、またひとつ、アンジーの可能性を広げてくれたのです。

 とはいえ、記事制作の現場には、以前から大きな課題がありました。それが「取材から原稿までにかかる時間と負荷」です。音声の文字起こしから構成、執筆までをすべて手作業で進めるのは、非常に時間がかかり、精神的な負担も少なくありません。そのうえ、外注に頼ればコストがかさみ、収益性を確保するのも難しくなります。エンタープライズITの分野に本格的に取り組めなかった背景には、こうした実務上の壁があったのです。

 そこで注目したのが、以前にはなかったAIの活用です。

 まずはAWSの音声認識サービスを使い、コンソールからS3に音声ファイルをアップロードし、Macのターミナル上で自動文字起こしを試してみました。すると、手を動かすことなく“そこそこの精度”で原稿の素材ができあがり、しかも英語の音声であればさらに高い精度で変換されるのです。――これは大きな効率化につながると確信し、社内メンバーに自社向けの文字起こしWebアプリケーションを開発してもらいました。

 そして2023年。生成AIの技術が急速に進化し、私たちのワークフローも一気に変わります。構成のアイデア出し、要約、タイトル案の生成、データの整理――人間の思考とAIの処理能力を組み合わせることで、記事の質を高めながら、制作スピードも大きく向上しました。2025年になって、LLMの精度も高まってきたことから、自社のAWS環境に生成AIによるチャットアプリ配備し、文章の整理もできるようになりました。

 こうして「編集とテクノロジーを掛け合わせる」というアンジーの原点は、生成AIの時代においても、確かな価値として再び動き出しているのです。

これからのアンジー ― 共創と発信の時代へ

 アンジーを創業した2005年、私はCMSによって情報発信のハードルが下がることに大きな可能性を感じていました。少人数でも、自分たちの言葉で情報を届けられる時代がやってくる。その未来に胸を躍らせながら、編集とテクノロジーの力を掛け合わせて事業をかたちにしてきました。

 あれから20年。前回のブログでも書きましたが、現在私たちはもう一度、情報発信の在り方が根本から変わろうとする時代に立ち会っています。

 生成AIの登場によって、記事制作のワークフローは大きく変化しつつあります。ただ単に作業を効率化するだけでなく、発想の補助、構成の提案、アイデアの広がりといった面でも、人間のクリエイティブな営みを支える存在になりはじめています。

 私はいま、この変化をただ見守るのではなく、新しい時代の「つくり方」「伝え方」を模索し、実践しながら、多くの方と共創できる場をつくっていきたいと考え、創業20年目にしてブログをはじめました。これからも、編集制作とテクノロジーの融合にこだわりながら、この変化の時代をどう生きるか、どんなかたちで伝えていけるかを考え続けていきます。

 今後もこのようなテーマで情報発信を続けていきますので、ぜひまた読みにきていただけたら嬉しいです。